ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版

ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版

ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版

姉妹本『メタマジック・ゲーム』と併せて、私にとってこれ以上の決定的な本はないんじゃないかと思う。
いままでいろいろ本を読んできたのは一体なんだったんだろうとも思わせる。
ホフスタッターはこの本を15才くらいの頭のいい連中に読んでほしいと述べている。
同感で、この書のような正しくまともな知識をその時期に得ることは、その後の知的発展に貢献しその人その社会にとってどれだけ有益なことだろうか。
翻って、巷に溢れかえっている本、雑誌、インターネットの情報を考えるとき、何か本質的な事柄を語っているようなつもりでいるそれらは、ほとんど意味をなさなかったり、単に間違っていたり、ただの無駄口であったりするものが大部分であろうと、この本を読んでからつくづく思うようになった。判別のつかない若い子らにとっては弊害だ。そのような疑似知性でも、大人にとってはそれなりに豊かにしてくれるものであるのかもしれないが、それでもカラ騒ぎに見える。

テーマはずばり、世界の根本的なところは何がどうなっているのか。そういうと何か哲学的な響きがあり、言葉遊びに過ぎないのではないのか、と思われるかもしれない。実際、ポストモダン構造主義現象学はそういうものである。純粋な知的な営みというより文学である。しかしこの本はきちんと説明してくれる。確かに言わんとしていることを理解するのは非常に困難な道のりであるが、一度あるポイントを掴めればそれ自体は難しいことではない。それでもあまりに広範囲に話が広がるので、筋道を見つけることは困難であることに違いないが。

ゲーデルエッシャー、バッハ。題名で示されている通り、われわれの文明に生きる誰もが経験できる、或るいは共通認識でもっている数学、芸術、また科学を通して、世界の根本的なところを説明するから説得力があるのだ。この説得力、そして全知全網羅的なボリュームは文明史に刻む書といっても言い過ぎではない。そこら辺の書とあまりにあらゆる面でレベルが違いすぎて、書店に行くことが楽しみではなくなってしまった。皮肉なことである。これこそ不思議の環?(本が述べている内容そのものが本を否定する)