人の社会的評価は、ことばで決まる

人に聞けない大人の言葉づかい (中経の文庫)

人に聞けない大人の言葉づかい (中経の文庫)

 世の中で、人の評価は、なにによってきまるか。
 人により答えはちがうであろう。財産があれば、えらいと考える人がたくさんいるから、みんな利殖に目の色をかえる。カネより名であり、地位であるという考え方も有力で、みんなえらくなりたいと願う。いくらすぐれていてもボロをまとっていては話にならない。ある程度、着飾っていないと、りっぱだといわれない。それで身だしなみに心をくだくのが、ことに女性のあいだではすくなくない。
 いや、そうではない。カネや地位、名誉、りっぱなみなりは、いつなんどき、失われるかもしれない。そんなもので、人間の価値を判断するのは、妥当ではない。
 なにがいいのか、といえば、ことば。これなら、一朝一夕に変わったりしない。おのずからその人の心もあらわしている。モノやカネの比ではない。
 人の社会的評価を決定するのは、ことばである。(略)
 ことばは意志・思考を伝達する手段であるけれども、それとともに、われわれの心をあらわす顔のようなものでもある。物質的にいくら豊かであっても、心貧しき人のことばは美しくない。心豊かな人はことばが豊かで、まわりに好感を与え、ときとして感動的である。(216P〜)

コンビニで購入したわりには、良い本であった。ちょっと年寄の説教臭さがあったとしても。

いろいろな用例をあげて、論じ検討しているのであるが、一つ個人的に付け加えたいことがある。それは十分意識しながらことばを用いる、ということである。ネット上で散見される好き勝手な誹謗・中傷する者、相手の意図を無視して延々と自分の話(本書ではこれをトーク・ショップと呼んでいる)をする輩、これらはある程度の意識を傾けることで改善されるはずだ。知識以前に、ことばに対する意識がないものがいかに多いことか。

はっと気づかされることがあった。それは「私」に関する記述である。日本人の美徳として、関係を円滑にするために自分というものを、控えめにしてなるだけ出しゃばった印象を相手に与えないようにする。その結果として、文中の修飾部や述部に私を暗示することばがあるのであれば、主語に「私」を使うことをなるべく控えるという。だから、主語がなくてもおかしくないのである。私が、私が、ととかくなりがちな世の中で、大事なことを気づかされた。
それ以外にも、日本語がもつ美しい側面に対する記述がいろいろあり、ことばの感度をあげてくれた気がする。エレガントなことばの使い手になりたいものだ。もう一度読み返そう。