宗教国家としての米国

神は妄想である―宗教との決別

神は妄想である―宗教との決別

まあ日本人にとっては、神といっても象徴的であったり儀式的であったりするわけで、何らかの神がこの自然や人類を一挙に造り上げた、なんて考える人はまずほとんどいないと思う。でもアメリカ人の多くはそう考えているのだ。何か末恐ろしいことのように我々には感じるのであるが、アメリカ人にとっては逆で無神論、つまりダーウィン流説明で猿から進化したと考えることの方が恐ろしいことなのである。だから、神を否定することを口にすれば犯罪的である。そんな中でのドーキンスである。日本人にとっても衝撃的でタブー感漂うタイトルなのであるが、アメリカ人とってそれの感じ方はどれほどのものであろう。

ドーキンスが科学的、進化論的観点から旧約聖書新約聖書を論駁しているあたりは、大人が子供相手に戦っているようでなんだか違うんじゃないの?なんて思うのであるが、そこまでやらなければならないアメリカ社会の宗教に関する根深い問題があるのである。例えば、アメリカにおいては無神論、他宗教を告白することは人生を捨てるに等しい。知的なアメリカ人は心の底では神を信じていないのに、体面上クリスチャンとして振る舞う二重スタンダードを強いられているのだ。そして聖書の教えに沿って科学を否定することで、教育において子供たちから思考能力を奪って、宗教的な観方以外はできない人を作りあげている。その意味で日本は自由で健全であると思う。神に対する信念の有無で疎外されるなんてことは皆無で、ダーウィン主義は常識として浸透しているし、宗教的な事柄は文化的な側面として何か大人の暗黙のルールみたいなもので守られている気がするからである。しかしアメリカでは現実社会、政治的な領域まで宗教が口を出す。それが国内的なねじれ、歪みだけではなく、対外的、特に対イスラム圏との激しいいがみ合いも生み出す。そうして、勇気を出して、もう宗教なんてまっぴらだ!とうわけである。