人的ネットワークがアメリカの強み

ひとりで死んでも孤独じゃない―「自立死」先進国アメリカ (新潮新書)

ひとりで死んでも孤独じゃない―「自立死」先進国アメリカ (新潮新書)

低負担低福祉、競争社会で弱者に厳しいアメリカ。そんなステレオタイプな語り口を見事に壊してくれる。

高齢者に対する社会福祉に関してはは日本より進んでいる。日本で昨今、独居老人が死後かなりの時間を経て発見されるケースが頻発し問題になっている。アメリカではほとんどないことである。それは社会的ネットワークの強さにある。

第一に、法整備による基盤、またNPO、ボランティア、寄付の文化的基盤が社会的ネットワークの隅々まで日本より行き渡っている。
第二に、アメリカには、誰にも頼らず自立して生きるという誇り高い文化がある。老人とて例外ではなく、主体的に一人暮らしを選択する傾向が高い。こうした自立を尊重する文化もネットワークの構築を容易にしている。独居にネガティブなイメージはない。日本の場合だと、社会的な疎外感が強く外への意思が弱まり、結果ネットワークを衰退させる。
第三に、見知らぬ人でもちょっとしたきっかけで街の中でも友達になることができる。日本だと街中での他人に対する関心はゼロである。

このようなネットワークがアメリカの強みである。日本はそれとは程遠いと言わざるをえない、金をばらまいて、はいそれで終わり。

私はNPO、ボランティア、寄付の意識、人間関係の多様性の差が日米の間では圧倒的だと思う。かくいう私もその意味で典型的日本人である。何というか市民意識のようなものがこれからの課題だ。がんばろうかな。この問題は誰にとっても他人事ではない。

シンメトリー ヘルマン・ヴァイル

シンメトリー

シンメトリー

これは一般読者にはちょっとついてけない。
それに興味も少し違う。
美的概念であるシンメトリーをどう分析しようと、どう定義しようと門外漢にとってはあまり理解できないことであって、むしろシンメトリーという概念が素人でも慣れ親しんだ経験とどう関係しているのか、という内容を期待していたが、そうではなかった。端的にいえば一般教養書というより専門書だ。数学的定義もでてくるしよくわからん。
シンメトリーが実際にどうあるとういうより、それが我々にとってどういう意味をもつのかということに対しての内容だったらよかったのにな。

ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版

ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版

ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版

姉妹本『メタマジック・ゲーム』と併せて、私にとってこれ以上の決定的な本はないんじゃないかと思う。
いままでいろいろ本を読んできたのは一体なんだったんだろうとも思わせる。
ホフスタッターはこの本を15才くらいの頭のいい連中に読んでほしいと述べている。
同感で、この書のような正しくまともな知識をその時期に得ることは、その後の知的発展に貢献しその人その社会にとってどれだけ有益なことだろうか。
翻って、巷に溢れかえっている本、雑誌、インターネットの情報を考えるとき、何か本質的な事柄を語っているようなつもりでいるそれらは、ほとんど意味をなさなかったり、単に間違っていたり、ただの無駄口であったりするものが大部分であろうと、この本を読んでからつくづく思うようになった。判別のつかない若い子らにとっては弊害だ。そのような疑似知性でも、大人にとってはそれなりに豊かにしてくれるものであるのかもしれないが、それでもカラ騒ぎに見える。

テーマはずばり、世界の根本的なところは何がどうなっているのか。そういうと何か哲学的な響きがあり、言葉遊びに過ぎないのではないのか、と思われるかもしれない。実際、ポストモダン構造主義現象学はそういうものである。純粋な知的な営みというより文学である。しかしこの本はきちんと説明してくれる。確かに言わんとしていることを理解するのは非常に困難な道のりであるが、一度あるポイントを掴めればそれ自体は難しいことではない。それでもあまりに広範囲に話が広がるので、筋道を見つけることは困難であることに違いないが。

ゲーデルエッシャー、バッハ。題名で示されている通り、われわれの文明に生きる誰もが経験できる、或るいは共通認識でもっている数学、芸術、また科学を通して、世界の根本的なところを説明するから説得力があるのだ。この説得力、そして全知全網羅的なボリュームは文明史に刻む書といっても言い過ぎではない。そこら辺の書とあまりにあらゆる面でレベルが違いすぎて、書店に行くことが楽しみではなくなってしまった。皮肉なことである。これこそ不思議の環?(本が述べている内容そのものが本を否定する)

宗教国家としての米国

神は妄想である―宗教との決別

神は妄想である―宗教との決別

まあ日本人にとっては、神といっても象徴的であったり儀式的であったりするわけで、何らかの神がこの自然や人類を一挙に造り上げた、なんて考える人はまずほとんどいないと思う。でもアメリカ人の多くはそう考えているのだ。何か末恐ろしいことのように我々には感じるのであるが、アメリカ人にとっては逆で無神論、つまりダーウィン流説明で猿から進化したと考えることの方が恐ろしいことなのである。だから、神を否定することを口にすれば犯罪的である。そんな中でのドーキンスである。日本人にとっても衝撃的でタブー感漂うタイトルなのであるが、アメリカ人とってそれの感じ方はどれほどのものであろう。

ドーキンスが科学的、進化論的観点から旧約聖書新約聖書を論駁しているあたりは、大人が子供相手に戦っているようでなんだか違うんじゃないの?なんて思うのであるが、そこまでやらなければならないアメリカ社会の宗教に関する根深い問題があるのである。例えば、アメリカにおいては無神論、他宗教を告白することは人生を捨てるに等しい。知的なアメリカ人は心の底では神を信じていないのに、体面上クリスチャンとして振る舞う二重スタンダードを強いられているのだ。そして聖書の教えに沿って科学を否定することで、教育において子供たちから思考能力を奪って、宗教的な観方以外はできない人を作りあげている。その意味で日本は自由で健全であると思う。神に対する信念の有無で疎外されるなんてことは皆無で、ダーウィン主義は常識として浸透しているし、宗教的な事柄は文化的な側面として何か大人の暗黙のルールみたいなもので守られている気がするからである。しかしアメリカでは現実社会、政治的な領域まで宗教が口を出す。それが国内的なねじれ、歪みだけではなく、対外的、特に対イスラム圏との激しいいがみ合いも生み出す。そうして、勇気を出して、もう宗教なんてまっぴらだ!とうわけである。

人はなぜ恋に落ちるのか?―恋と愛情と性欲の脳科学

人はなぜ恋に落ちるのか?―恋と愛情と性欲の脳科学

人はなぜ恋に落ちるのか?―恋と愛情と性欲の脳科学

女の人が書いた女の人のための書。

恋は確かに感情に訴えかける。

でも男はそこを噛みしめてやりぬかなければならいことがあるのだ。

この感情に屈するとは分かってても、この感情を支配したいのだ。

男は戦士なのだ。

不安の概念 (岩波文庫)

不安の概念 (岩波文庫)

不安の概念 (岩波文庫)

最初のほうは異様に理解が困難であった。
でも、その後の方はある程度文献読み込んでいる者であったら、そこそこ理解できるのでは。

キルケゴールの代表作といったら、何といっても、「死に至る病」と本書であるが、どちらかというと本書の方が哲学論文調である感じがする。前者が神キリストの現前における独白としたら、後者はそれの理論的バックアップとでもいうような。死に〜は読んでて非常に心訴えるものがあり、キルケゴールの心情を身近に感じることができる。一方、不安の〜は、ケルケゴールの哲学的、思想的位置づけ、あるいはキリスト教というものに対する理解が深まり、非常に勉強になった感がある。

ハイデガーが唯一重視しているキルケゴールの書は本書だそうだ。彼はこれを基礎の一つとして独自の理論を発展させたということらしい。
要は、キリケゴールが存在概念を神に還元できるものとするのに対して、ハイデガーはそれは還元不可能で存在そのものを理論的に位置づける、とでもいうことかな。
本書の中で、瞬間とか飛躍とかの神学的概念を哲学的理論の中で使用していることに対しては、現代のわれわれにとってみれば、ちょっと雑すぎるというか素朴というか、ある意味理論の放棄というか思考の放棄というように思われる。
でも、哲学という大きな枠組みの中で、いろいろな視点(実存概念、キリスト教、存在、反復・・)を投げかけてくれるという意味で、キルケゴールは大きな位置を占めていることは間違いない。単なる蒙昧なキリスト原理主義による自己弁護ではない。読んでよかった。

僕はいかにして指揮者になったのか (新潮文庫)

僕はいかにして指揮者になったのか (新潮文庫)

僕はいかにして指揮者になったのか (新潮文庫)

指揮者のイメージが変わるね。
この方は豪快そのもの。バーンスタインに見いだされて成功を掴んだそうであるが、バーンスタインのイメージも思っていたのとちょっと違ったな。同じく豪快な感じ。本書を読む限りでは。

演奏会来いひんか、ていうのが第一の言いたいことで、私も音楽を生で聴きたくなった。やっぱり音楽最高ーーー。著者の人徳というか人柄がにじみ出ていて、読んでて非常に面白かった。こういう人は才能とか秀才とかいうそういうことよりも、人としての魅力に抜きんでた人なんだろうなと思った。