ビックバンの前に何がおこったのか

お馴染みのビックバン理論をより発展させたインフレーション論を非常に分かりやすく解説。
インフレーション理論はビックバン理論では説明がつかない現象を説明できるとする。例えば、宇宙の一様性の問題、ビックバン特異点の問題、そもそもなぜビックバンが起きたのかという問題等々。もちろん新たなぞを残すのであるが。そのことからインフレーション理論は、ビックバン以前の出来事、無から宇宙の創造、多宇宙観等を示すことを可能とする。こんなワクワクするような話はない。現代物理学では決して届かない領域、知的好奇心の限界の領域を見せてくれるだろう。

インフレーション理論で何が要の鍵になるのか?私が理解した限りでは、量子力学になる。量子力学について記述は少ないので他で学んだほうがより本書の理解が深まるだろう。

内容は平易なので一気に読破した。素人で宇宙に漠然と興味ある人は必読。

科学哲学講義 (ちくま新書)

科学哲学講義 (ちくま新書)

科学哲学講義 (ちくま新書)

入門書として楽しく読めた。丁寧で柔らかい語り口で読みやすい。
途中、論理的というか屁理屈というか、頭が混乱するようなところもあったが。
でも、整理して考えること自体が楽しかったりする。

科学的判断はいかにしてなされるか、正しいとされる科学的証明はいかにして導かれるか、ということがテーマ。
最近話題になった、光より速いニュートリノに対する反証された実験の記述もある。仮に光より速いニュートリノが証明されたとしても、ただちに相対性理論が破られるわけではないという。理論というものは無機質な硬直した融通の利かないものではなく、有機的に柔軟に対応ができるものであるからだ。だからと言って、恣意的に扱えるものでもなく、厳格な証拠や枠組みに照らし合わせなければならない。その辺の微妙なバランスが理解されるはずだ。

インチキ、詐欺的物事があふれる世の中で、まっとうなことをまっとうに考え判断する、常識的な目を開いてくれるだろう。

参考文献をもっとたくさん載せてほしかった。

あーブランデンブルグ協奏曲

バッハ:ブランデンブルグ協奏曲

バッハ:ブランデンブルグ協奏曲

パイヤール楽団演奏のこのブランデンブルグ協奏曲が一番しっくりするな。

クラッシク音楽の中でもバッハは別格だと思ってる。

こういう音楽に出会わない人生ってなんなんだろう、なんて大げさに思ってしまう。

人の社会的評価は、ことばで決まる

人に聞けない大人の言葉づかい (中経の文庫)

人に聞けない大人の言葉づかい (中経の文庫)

 世の中で、人の評価は、なにによってきまるか。
 人により答えはちがうであろう。財産があれば、えらいと考える人がたくさんいるから、みんな利殖に目の色をかえる。カネより名であり、地位であるという考え方も有力で、みんなえらくなりたいと願う。いくらすぐれていてもボロをまとっていては話にならない。ある程度、着飾っていないと、りっぱだといわれない。それで身だしなみに心をくだくのが、ことに女性のあいだではすくなくない。
 いや、そうではない。カネや地位、名誉、りっぱなみなりは、いつなんどき、失われるかもしれない。そんなもので、人間の価値を判断するのは、妥当ではない。
 なにがいいのか、といえば、ことば。これなら、一朝一夕に変わったりしない。おのずからその人の心もあらわしている。モノやカネの比ではない。
 人の社会的評価を決定するのは、ことばである。(略)
 ことばは意志・思考を伝達する手段であるけれども、それとともに、われわれの心をあらわす顔のようなものでもある。物質的にいくら豊かであっても、心貧しき人のことばは美しくない。心豊かな人はことばが豊かで、まわりに好感を与え、ときとして感動的である。(216P〜)

コンビニで購入したわりには、良い本であった。ちょっと年寄の説教臭さがあったとしても。

いろいろな用例をあげて、論じ検討しているのであるが、一つ個人的に付け加えたいことがある。それは十分意識しながらことばを用いる、ということである。ネット上で散見される好き勝手な誹謗・中傷する者、相手の意図を無視して延々と自分の話(本書ではこれをトーク・ショップと呼んでいる)をする輩、これらはある程度の意識を傾けることで改善されるはずだ。知識以前に、ことばに対する意識がないものがいかに多いことか。

はっと気づかされることがあった。それは「私」に関する記述である。日本人の美徳として、関係を円滑にするために自分というものを、控えめにしてなるだけ出しゃばった印象を相手に与えないようにする。その結果として、文中の修飾部や述部に私を暗示することばがあるのであれば、主語に「私」を使うことをなるべく控えるという。だから、主語がなくてもおかしくないのである。私が、私が、ととかくなりがちな世の中で、大事なことを気づかされた。
それ以外にも、日本語がもつ美しい側面に対する記述がいろいろあり、ことばの感度をあげてくれた気がする。エレガントなことばの使い手になりたいものだ。もう一度読み返そう。

The Cinematic Orchestra presents In Motion #1

The Cinematic Orchestra presents In Motion #1 [解説付 /国内盤] (BRC329)

The Cinematic Orchestra presents In Motion #1 [解説付 /国内盤] (BRC329)

僕が作りたいのはポピュラー・カルチャーに根ざした音楽で、そのためには映像との結びつきや映画音楽の影響が重要なんだ。ヴィジュアル・アートを勉強していた僕にとっては、映像と音楽が結びついていくのは自然な流れだった。『Man with a Movie Camera』では、ジガ・ヴェルトフの無声映画という既成の映像に音楽をつけることで、ふたつが結びついた。『Ma Fleur』ではオリジナルの映像を想定して音楽を作った。僕は複雑で強烈なインパクトをもたらす映像というメディアとの結びつきを模索することで、新しい音楽を作ることができると思う」 - by ジェイソン・スウィンスコー

ジャズっぽいアンビエントアンビエントって時間を意識してそれに表現を与える音楽と、大雑把に言えると思うけど、ジャズもどちらかというとそういう形態の音楽なんだなと知った。リズムやメロディーがメインとなる物語的な音楽と違って。
時間を意識することって、音符という記号の中に決まった意味を発見する作業というより、その記号に意味を付与する作業といってよいのでは。リズムやメロディーが主体の音楽はただ一通りの時間軸しか許されないが、時間を意識する音楽はおのおのが時間軸を設定できる主体となるわけだ。その時間の枠組み設定が音の意味を生む、或るいは物語を生むということだ。ということはその枠組み自体に意味があるのか。うーーん混乱してきた。
そうすると無声映画とは、枠組みだけの非物語的疑似物語、前意味的な意味の場とでもいうことになるのか。物語るのは我々自身で、意味を与えるのは我々自身であるという意味で。そこに映像の、また音楽の本質みたいのが隠れているんじゃないかな。認知の枠組み=記号の原風景=サウンドスケープ、そんなところに何かヒントありそうだ。以上は勝手な連想。

ただいえることは、こういう種類の音楽はジョン・ケージの影響が絶大だということだ。ある臨界を覗き込みそしてクラシックに回帰する、みたいな。

音楽だけでも素晴らしい。

3.11後を生きる君たちへ〜東浩紀 梅原猛に会いにいく

http://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20120325-31-24866

非常に残念な内容だった。

キリスト教文化圏、一神教の思考は行き詰まりを見せているので、日本のような多神教的な考え方がこれから求められる----以前、このようなことを小沢一郎が発言していたのを覚えていて、何て短絡的な考え方なんだろうと思っていた。だがしかし!全く同じような思考を梅原猛はもっていたのだ。政府の重要な会議の顧問を務めるような人物がである。

人間中心主義の西洋哲学は、自然や環境を支配の対象としてとらえ、それを破壊することを常として、揚句の果てに原子力災害を引き起こした。だから、西洋哲学は生き詰まりを見せており、それに代わるものとして、人間と自然を調和することを根本に据えている日本古来の思想に立ち返るべきである。以上が小沢―梅原の論点である。

これは、20世紀以前の西洋の思想に基づいた観方で、それ以降の構造主義ポストモダン分析哲学、科学哲学、プラグマティズム周辺の考え方をほとんど無視した恐るべき結論である。現代の西洋思想は 、人間中心主義、ヨーロッパ中心主義あるいは近代的思惟と呼ばれるものに対して、いかにそれを乗り越えるか、という歴史である。それをほとんど無視して日本の思想の優位性を説くのであれば、西洋から見れば逆の意味で日本中心主義、自民族中心主義のドグマに陥っていると簡単に指摘されよう。それは西洋の反対のバージョンである人間中心主義ではなかろうか?
小沢―梅原の論点は、責任転嫁とご都合主義と自己弁護である。100年前の西洋がそうであったように。

東がポストモダンの多元的な考えを引合に出して現代日本の状況を説明した時、梅原が質問に答えず自説のみ展開していたが、このことが現代の状況に対する疎さを物語っていた。東は年長者に対する畏敬は表していたが、恐らくこの爺さんは50年前に頭止まってしまったんじゃないか、って思っていただろう。それに引き替え、番組内の発言聞いても東の頭はキレキレだった。

確かに欧米の保守的な考え方する人の中には人間中心主義から逃れていない人が多くいるだろう。でも学問をかじったことのある人ならそんな考えは馬鹿げていると思うはずだ。だいたい、グローバルな世の中で東洋だの西洋だの言って正統性を主張すること自体ナンセンスだ。人類としての存在が我々の唯一の拠り所となるはずだ。他との違いより共通点を見出すべきだ。

日本はデフォルトするか?

円が消滅する日 (日文新書)

円が消滅する日 (日文新書)

日本の国債がデフォルトに陥って、円安・債権安・株安のトリプル安になり日本円が紙屑になるので海外に資産を移そう、特に覇権国家であるアメリカのドル以外にありえない、という内容。

読んでてあまりに分かりやすい悲観的シナリオを描いているので、実際そうなるかは疑問だが、どの道デフォルトになるしろ大増税になるにしろインフレになるにしろ、今までのツケをこれから支払わなければならないのは確実であるので、覚悟、準備を備えなければならないという意味で著者に大方賛同する。

アマゾンレビューをみての意見。
本書のような日本危機論に対して、激しく批判している者は非常に感情的で全否定する内容で、本書を肯定的に受け入れている者は冷静な分析と懐の深さを感じる意見を述べている。それに本書の趣旨とは離れた見当違いなレビューもちらほら、読解力を疑う。このこと自体が日本の状況を物語っていないだろうか?つまり、危機に陥った、あるいは陥っている国アルゼンチン、スペイン、イタリア・・を見ればよくわかる。よく言えば情熱的だが楽観的で冷静な分析を好まないお国柄ではなかろうか。デフォルト?しらねーよ、どうにかなるさ、政治家が全部わるい、みたいな短絡的思考形態。結局日本人のお気楽さがここまで借金を作ってしまったわけだが、これは場たり的な人間が多いことの証明だろう。

これだけの借金と経済、社会状況を鑑みて、本書のような悲観的シナリオを全否定するなんて狂気の沙汰にしか思えない。たとえ10%だろうが1%だろうが少なからず起こる可能性があるのなら、その話に真摯に耳を傾けるべきではないだろうか。まあ、それができなかったからこういう状況になってしまったのではあるが。

本当に危機が起きた時に備えて、少なくとも頭に入れておくべき内容である。全財産を資産フライトさせるのはちょっと難しいが、日本の郵貯、銀行だけというのも考えものだと改めて思う。

個人的には、経済的価値観なんてどうでもよく、イモでも食って生き延びればいいじゃねーか、そんなサバイバル生活もいいんじゃないかなんて少し思ったりする。